天ヶ瀬冬馬はいくつかのルーティンを持っている。
 例えばモーニングルーティン。早朝5時にセットしたアラームで目を覚まし、顔を洗い歯を磨き、コップ1杯のミネラルウォーターを飲んで、それからランニングウェアに着替える。
 マンションのエントランスを出て適度な準備運動を終えると、冬馬は軽やかな足取りで走り出した。肺が凍てつきそうなほど冷たい空気を吸っては吐き、吸っては吐き、慣れたコースを慣れた速度で走り抜ける。辺りはまだ眠っていて、ハッハッと己の呼吸音だけが聞こえる。この時間が、冬馬は嫌いではない。

 北斗が日本を経った直後、冬馬は衝動的に引っ越しをした。
 海岸近くにある高層マンションの1LDK。オーシャンビューの物件など興味はなかったのだが、事務所が見つけてきた部屋がそれだったのだ。前の部屋のほうが都内に近く、利便性も申し分なかった。それでも引っ越した理由はただひとつ。どうせ走るなら海の近くがいいと思ったからだ。
 元々、体力作りの一環で走ってはいた。ただ、時間も距離もまちまちであったため、担当トレーナーと相談して毎朝1時間、約10Kmの距離を走ることに決めたのだ。
 走るしかなかった。何も考えたくないからではなく、考えていたいから走ることにした。アイドルとして己に足りないものは何か。伸ばせるものは何か。北斗と翔太の3人で行っていた反省会だって2人が不在の1年は独りで行うしかなく、どうせならと走りながら振り返っていたものだ。
 立ち止まってなどいられないのに、進み方がわからない。
 北斗ならモデルにピアノを、翔太ならダンスを、それぞれ確かな才能として確立できている。そういう、特出した才能がないと冬馬は悩んでいた。周りの人々は「冬馬は冬馬のままでいい」と言ってくれたが、それは冬馬が望んでいた言葉ではなかった。
 一時期は黒井に連絡を取ろうかと思うほどだった。何故なら黒井崇男こそが冬馬をこの世界に引き入れた人物なのだ。アイドルのことなど右も左もわからなかった冬馬の何を見て「トップアイドルになる価値がある」などと口走ったのか、その答えを聞いてみたいと思った。――結局は、彼の声すら聞けなかったのだが。
 悩みに悩んで、そして冬馬は吹っ切れてしまった。
 才能がないのなら努力で補うしかない。やるべきことをとことんやろうと決めた。与えられた仕事はもちろん、向けられる期待にだって全力で応えてみせる。それがジュピターの天ヶ瀬冬馬なのだ。

 1時間のランニングとクールダウンを終えて、冬馬は日頃から通っているコンビニに足を運んでいた。煙草とホットコーヒーを買って店を出る直前、ふと雑誌コーナーに視線が向いたのはよく知った名前があったからだ。
(あー……)
 御手洗翔太と大きく書かれた名前のすぐ横に『熱愛発覚!?』『堂々お持ち帰り!?』などと、目を引く煽りが載っている。中身も見てやろうと思ったが、片手がコーヒーの入った紙コップで塞がっていたため叶わなかった。ひとまず雑誌の名前だけ覚えてコンビニをあとにする。
 あんなもの、大半が話題作りのためにでっち上げたゴシップに他ならない。冬馬にも似たような経験がある。特に恋愛映画などは『この映画の撮影を通して2人の距離がぐっと縮まりました♡』というようなアプローチが一番響くらしいのだ。何にって、興行収入的なものに。
 翔太が出演するのは映画ではなくドラマのはずで、撮影もまだ始まったばかりだと聞いている。つまりそれだけ期待されているのだろう。裏事情を冷静に分析しながら冬馬は熱いコーヒーを啜った。
 大変だったなと肩を叩いて済めばいい話なのだが、翔太に限ってそうはいかない。冬馬は頭の中で己と翔太のスケジュールを照らし合わせながら、揃って時間が取れる日を割り出していた。

 洒落た店内に彩りを与えるジャズピアノのまろやかな旋律。このレストランに居ると時が外よりもゆっくり流れていると感じる。なるほど『大切な方と優雅なひとときを』という宣伝文句に嘘はなかったわけだ。
 美味しい美味しいと舌鼓を打ちながらデザートまで堪能したディナーのあと、2人は併設されているバーコーナーへと移動した。しっとりとした雰囲気の男女がグラスを片手に談笑している中、カウンターではなく窓際の席に案内される。ガラス張りの向こうはテラス席だった。冬の間は開放していないらしいが、そちらのほうが好都合だ。
 向かい合う形で設置された一人掛けのソファに身を預け、ポケットの中身をローテーブルの上へと並べていく。薄暗いオレンジの照明が濃い木目の天板によく映えていた。
 ナッツとプロシュートをつまみに運ばれてきたシャンディとモヒートのグラスにそれぞれ口付ける。グラスを回して中のミントを泳がせながら翔太は楽しげに笑った。
「今更だけど、これってデート?」
 その質問には答えないまま冬馬はグラスを置くと、スマートフォンの上に乗せていた煙草のボックスとライターを手に取った。白と赤のコントラストに描かれた王冠マークはブランドのシンボルだ。フィルタを軽く唇で食み、慣れた手付きで火を点ける。
「デートならこんなところに連れて来たりしねえよ」
「だよねぇ。冬馬君と行くなら居酒屋のほうがくつろげるし」
 どうせ北斗君のおすすめなんでしょ。と、帰国したばかりの男の名前が出てくる。座っているのに上目遣いをしてくる男に、なんでわかるんだよと思いながら冬馬は肺を満たしていた煙を翔太の顔面に吹きかけた。
「うわっ、もう、信じらんない」
 と、言いつつ己の煙草に手が伸びる辺り負けず嫌いだ。
 飲んでいるカクテルと同じフレーバーが香る青のボックスから翔太が1本引き抜こうとした直前、冬馬は口を開いた。
「点けてやろうか、火」
「……ん。じゃあお願いしようかな」
 快い返事をもらい、冬馬は咥えていた煙草を指の根で挟むと手首を捻って翔太の顔面に向けた。
「持ってろ」
「えー……そういうこと?」
 翔太が想像していた火の点け方は映画や漫画で定番のシガーキスだったのだろう。当てが外れて、おまけに冬馬の煙草を預かるはめになり伊達眼鏡越しの眉が歪む。それでも翔太は唇を薄く開いて、差し出された煙草を器用に咥えた。
 自由になった手を伸ばして翔太が引き抜きかけていた煙草を摘むと、冬馬は自分の煙草と同じように扱った。音で選んだライターを片手で開いて火を点けてやる。
「やっぱり冬馬くんの、まずい」
 けほけほと咳き込む真似をしながら翔太が吐き捨てる。まずい、なんて言葉を翔太の口から聞くことは滅多にない。何を食べても、身体の一部を口に含んだって「おいしい」と言う奴だ。そんな翔太に苦い顔をさせて「まずい」と言わせるのだから役得だと思う。
「とか言って翔太おまえ、めちゃくちゃ吸ってんじゃねえか」
「久しぶりだったから」
「美味かったんだろ」
「だからぁ、まずいって言ってるじゃん」
 ガラス製の灰皿の中に遠慮なく灰が落とされ、短くなった煙草を受け皿ごと渡される。冬馬も紫煙がたゆたうそれを翔太に返した。
「あーあ、間接キスしちゃった。外なのに」
「誰も見てねえよ」
 バーに居る男女は自分たちの世界にどっぷりと浸かっている。そもそもここは北斗が使うような店なのだ。最低限の配慮はしているが、俗世に疎い彼らが冬馬と翔太をアイドルだと認識できているかどうかも怪しい。
「……本当に? 誰も?」
「……見せつけたい相手なら、嫌でも見てるんじゃねえの」
 グラスの中身を味わいながら冬馬はテラス席の先に目配せをする。週刊誌の記者はどこに隠れているのやら。
 はあ、とわざとらしいため息をついて翔太がうなだれる。
「僕はあの子より冬馬くんとの仲を疑われたいよ……」
 飲み会のあと駅まで一緒に歩いただけだし。向こうのマネージャーさんもすぐ傍に居たし。間接キスどころか指一本だって触ってないんだよ? 番宣のためだってわかってるけどしばらく騒がれるんだと思うと憂鬱。あっちがまんざらでもなさそうなのがもっと憂鬱。
「冬馬くんとのゴシップなら大歓迎なのになぁ」
 はあ、と締めのため息も忘れずにナッツの山を指先で崩す。翔太のうじうじトークに耳を傾けていた冬馬はふ、と困ったような笑みを作った。
「あんな記事で熱愛って騒がれるんだからすげえよな。俺らのほうがよっぽど書けねえことしてるのに」
「ほんとだよー。って、冬馬くんあの雑誌読んだの?」
「アメリカ帰りの色男がどんなアプローチをしたのか気になって」
「他人事だと思って面白がらないでよ。告白されたら冬馬君の名前出してやる」
「ばか、こじれるだろ」
「こじれるわけないじゃん。僕と冬馬くんは同じユニットのメンバー同士なだけなんだから」
 不機嫌を隠さない翔太の口ぶりは酔いが回ってきた証拠だ。冬馬はそうだな、と頷いて吸い切った煙草を灰皿の底で潰した。グラスが空になる前に同じものを注文する。シャンディとモヒート。モヒートのほうは気持ち薄めで。
 熱愛報道が出ると、翔太は決まって自分たちの関係に卑屈になる。男女2人が並んで歩いているだけの写真が様々な憶測を呼ぶのに、同性同士ではそうもいかない。
 もしも冬馬が女だったら、翔太が女だったら。2人は週刊誌にすっぱ抜かれてビッグカップル扱いされていたはずだ。……現実は、記事にもならない。なったとしても、『メンバー同士仲がいいね』と微笑まれるだけだ。
 悔しいのか、悲しいのか。ぐずぐずと不満を垂れる翔太に冬馬がしてやれることといえば、こうやって酔わせて甘やかしてやることくらいだ。噂になった女とよりも近い距離で、親密に、『仲がいい』だけでは説明がつかないような艶のある空気をまとって。
 こちらがここまであからさまにしているというのに、その可能性を1ミリだって想像しない。ゴシップを作る記者の目は節穴なのだ。

 翔太にばかり食べられて手付かずだったプロシュートにフォークを突き刺す。思ったよりも塩辛かったそれをアルコールで流したあと、冬馬はソファの端に置いていたクラッチバッグへと手を伸ばした。目当てのものを取り出して翔太に渡す。
「なにこれ」
 手のひらに乗るほどの……下品な言い方をするならば、コンドームの外装ほどのサイズをした白い紙袋である。描かれているロゴは冬馬が好んで身に着けているブランドのものだ。
「誕生日プレゼントだよ。去年の分、渡してなかったの思い出した」
「ええっ? ぼく、5月に行った旅行がお祝いだと思ってたんだけど……」
「あれはジュピターとしてっつーか……いいから開けてみろ」
「うん」
 シールを破かないよう慎重に開封する翔太を見つめながら、冬馬は異国の景色を思い浮かべていた。
 5月。ジュピターのメンバーは全員揃って休暇を取り、世界で2番目に小さな国へと足を踏み入れていた。冬馬と北斗のお目当ては最高峰とも名高いレースの現地観戦。2人ほど熱心ではない翔太もスタートさえしてしまえば場の空気に合わせてはしゃいでくれた。
 夜はカジノに足を運んで、その非現実な空間に圧倒された。翔太は運のよさを遺憾なく発揮して、冬馬はほどほどに青ざめて、北斗はゲームに興じながらも女への声掛けに余念がなかった。
 計画を立てていた頃から「ホテルは各自で用意しよう」と北斗に提案されていて、もしかして気を遣わせているんじゃないかと冬馬は心配していたのだが、それは杞憂だとばかりに、北斗はカジノで意気投合した美女と夜の街へ消えてしまった。
 初めからそのつもりだったらしい。取り残された冬馬と翔太が目を丸くしていたのは少しの時間で、ツインの部屋を取っていた2人は逢えない間の寂しさを埋めるように密な夜を過ごしたのだった。
「ピアスだ」
 紙袋の中身を手のひらに落とした翔太が呟き、ふわふわとしていた冬馬の思考も地に足がつく。
 翔太に似合いそうだと思って購入したシルバーのフープピアス。歪だが洗練された曲線が特徴的なフープにはエメラルドがちりばめられている。普段使いはもちろんフォーマルな場でも十分映える一品だ。
「言っとくけど、北斗のおすすめじゃねえぞ」
「わかってるよ。……うわぁ、どうしよう、うれしい。これ、左耳用だよね」
 言いながら、左耳のピアスを外していく。翔太の右耳には2つ、左耳には北斗に倣って3つのピアスホールがあった。
「……どうかな? 似合ってる?」
 ずっと昔に頼まれて、冬馬が開けた耳たぶのピアスホールでシルバーが光る。控えめに主張する天然石にも目が引かれる。
「……いいな。俺のものってかんじがする」
 それに、翔太にはやはりエメラルドで正解だった。誕生石であるダイヤモンドを選ぶべきだったのだろうが、冬馬は色を優先させたのだ。実はルビーとも迷っていたのは秘密。だってそれだとあまりにもあからさますぎる気がして――。
「翔太?」
 外してしまった3つのピアスを冬馬が渡した紙袋に入れ、煙草と一緒にクロスボディバッグへと詰め込んでいく。帰り支度を始めた翔太を呼び止めれば、濡れた瞳で射抜かれた。じとりと睨まれてしまい、あー……と、目を泳がせた冬馬は「そろそろ出るか」と提案したのだった。
 冬馬は変わらずシャンディで、翔太は冬馬の忠告を無視してウイスキーを飲んでいた。それぞれのグラスに入った琥珀色をあおってスタッフに声を掛ける。
 ソファに座ったまま会計を済ませると2人は立ち上がった。

 御手洗翔太の熱愛報道が世に出たとき、天ヶ瀬冬馬が取る行動の真意を答えよ。ただし、解答には『愛』という単語を一度も使わないこと。

「……冬馬くんはちょっと、うかつだよね」
「迂闊?」
「ああいうことはさぁ、もっと慎重に、っていうか……ふたりっきりのときに言ってよ……」
 駐車場の隅でタクシーを待っている間。怨めしく睨んでくる翔太に冬馬は吹き出して耳打ちをした。
「悪かった。……じゃあ、続きはどっちの部屋で聞きたい?」
 新居を探している素振りなど毛ほども見せなかったくせに、翔太は北斗が帰国する直前、スーツケースに自身の荷物を詰めて「お世話になりましたー」と軽い口調で冬馬の部屋から出て行ってしまっていた。
「えぇ~……なら今日は、僕が冬馬くんをお持ちかえりしちゃおっかなぁ」
「カメラ。向けられてるかも知れねえぞ」
「撮らせてあげようよ。どうせ、記事になんてできないんだから」
 だな、と頷いて冬馬は翔太の肩を抱いた。
 そのままの勢いでピアスに唇を寄せる。外の空気にあてられたシルバーはすっかり冷たくなっていた。
「なあ翔太……これ、マジで似合ってる……から、しばらく着けてろよ」
 誕生日プレゼントなんて建前だ。嘘でも翔太が他の人間と噂になるのが堪えられなくて、レストランを予約するよりも先に用意した。翔太は冬馬からのプレゼントを無下になどしないから。喜んで身に着けてくれると知っているから。
 薬指どころか小指の先も通らない。当然、腕にも首にもはまらない。
 だが、冬馬が翔太に贈った小さな輪っかは指輪であり、腕輪であり、首輪である。美しく輝くそれには狭量な男のくだらない独占欲が込められている。
 御手洗翔太という少年の成長を冬馬は間近で見てきた。――わかっているのだ。愛され上手のまま大人になった、こんないい男を、周りの女どもが放っておくわけがないと。
 そんな冬馬の心情を知ってか知らずか、にこりと笑った翔太に冬馬の胸がトクンと高鳴る。肩を握っていた手を取られて、チェスターコートのポケットへと導かれる。誰にも見られないポケットの中で指と指とが絡み合い、ぎゅっと手を握られた。
「……うん。僕のものってかんじがする」
「っな、なんだよ急に……!」
 噛みしめるように言われた台詞に冬馬はついあとずさってしまう。けれど距離を取ることを翔太は許してくれなかった。
「もぉー寒いんだからはなれないで。冬馬くん、鼻あかいよ?」
「うるせえー!」
「あはは、元気でた」
 きっと鼻先だけでは済んでいないと思う。
 タクシーがやってくるまであとどれくらいだろう。翔太の手を強く握り返して冬馬はきゅっと唇を結んだ。口を開けたらいらないことまで言ってしまいそうで恐ろしかったのだ。
 甘やかすつもりが甘やかされて、縛りつけたつもりが膝を着いている。いつだって冬馬は翔太には敵わない。そういう星の下に生まれてしまったとしか思えなくて、ほんの少し悔しくなった。




ガリレオにも解けない/211205